onorichan’s blog

平穏を愛する私と夫と息子とうさぎの暮らし。生活スタイル模索中な日々を綴ります。

宿題から感じる「わからない」との向き合い方

こんにちは、onorichanです。

 

息子が宿題の答えがわからないと嘆いたことがありました。

確かにいつもしている宿題よりも少し理解するのに難しい内容。

 

問題文をきちんと理解することに少しだけ時間をかけないといけないタイプの問題だったので、文章を読み解きながら一緒に理解を進めていきます。

「これはだれのきもち?」とか「だれがこうおもったの?」とか。

でも息子にはもう、『自分は考えてもわからない問題だった』というフィルターがかかっているのと、疲れも相まって返答が適当だったり黙ったり。

 

ここで少し気分を変えるにはと考えればよいのでしょうが、つい思ってしまうのです。

「あなたの宿題でしょうが!」「そんな難しいことを聞いてませんが!」

 

そんな気持ちになるともう、お互いによくない。

「やる気がないならやめなさい」

となってしまう。

でも、息子は

「やる!」とムキになる。(でもそこでやらない!とならない息子はすごいなと思います)

お互いもやもやしたまま進め、なんとか問題の意味は理解できたようで、宿題も終えることは出来ました。

 

こんなやり取りをした後、ふいに思い出したことがありました。

 

ずいぶん前ですが、確定申告をしなければならず、なにもかにもわからない私は会場で相談しながらできるという情報を目にしたため予約をし向かいました。

スマホで出来るということで、スマホを用意し、言われるがままに進めていきます。

学生バイトさんのような若い方が何人かを相手に一人で対応しているので大変そうだなと思いつつ、スマホを見つめ進めていきます。

すると、わからないところが出てきたのです。

自分のところに来たのを見計らい、声を掛けます。

「あの、この場合は」と。「ああ、これは」と説明を受けまたスマホと対峙。

と、またこれは…というところで声を掛ける。

すると、一瞬「ふふっ」というような表情をし、なにもかにも理解していない人に一から教えるかのような雰囲気で説明を始めたのです。

恐らく、いい年してわからない自分の恥ずかしさのようなものも相まってそう受け止めてしまったのでしょう。

 

でも私は違和感を覚えました。確かに自分は何もわからないし、丁寧に教えてくれていると言えば丁寧であるのかも知れない。

でも、今の自分ではない「何者か」として扱われたようなことへの違和感です。

 

息子も同じだったのではないか。

「疲れた」も「考えたけどわからない」も事実なのでしょう。

でもそれだけじゃなく、私から発せられている「なぜわからないのか」という雰囲気と、「何者か」として扱われたような気持ち。

それが息子を余計もやもやとさせ、いくら聞いても適当な返答になったのではないか。

わかるようになることももちろん必要なのだけれど、「息子自身を見つめる」という視点で言えば、分からないことを受け止めてもらえる経験が息子にとっては必要な一瞬だったのではないかと思うのです。

 

そして私。ずいぶん前のことなのに、未だに覚えているということは、自分のもやもやとして受け止めてしまっているからこそなのでしょう。ずっと消えないもやもやとして。

この出来事に関わらず、自分のもやもやを誰かに聞いてもらうことが発散なのか、何かに書くことが発散なのか、そうでなければ自分でもやもやを持ち続けるしかないのか、なんて思っていましたが、

自分のもやもやを何かの形で誰かへの寄り添いに繋げることで自分に落とし込む。

それでもいいのか、というか、そう出来たらいいのかもしれないと思ったのでした。

 

 

お読みいただき、ありがとうございました。

もうすぐ3連休。やっとお休み、の方も、連休こそが忙しいの方も、いつも通りの方も。

深呼吸して力を抜いて。

今日も一日、お疲れ様です。